« 2006年4月 | トップページ | 2006年7月 »

2006年5月 8日 (月)

四月歌舞伎座 夜の部

井 伊 大 老

今回は最後の幕のみの上演なので、桜田門外の変に至る政争は描かれず、正妻昌子や水無部六臣・長野主膳も登場しない。場面転換もなく、お静の方の住む下屋敷だけという今回の上演はしかし、物足りないどころか、直弼とお静の方との間に流れる情愛だけがしみじみと伝わってきて、かえってシンプルでいいように思った。

吉右衛門と魁春のコンビはもうおなじみで、安定感すら感じる。魁春初役のお静の方は、控えめで慎ましい人だけに昌子への嫉妬を思わずもらす場面が生々しくならず、禅師の台詞どおりかわいらしく映る。禅師の言葉から直弼の前途に不安を感じ、その後もずっとその不安をぬぐえずにいる、その表情がとても印象的だった。

禅師は富十郎。よっこらせ、と年寄りっぽく演じていて、この人の実年齢を考えるとむしろ普通なはずなのに、日頃年齢を感じさせない人だから、老けに演じると不思議な気がしてしまう。もちろん、この役にはとても合っていたのだけれど。

歌江さんの雲の井がいい。歌右衛門の追善にはなくてはならない人だものね。

吉右衛門の直弼はもう何度も観ている気がするのだけれど、この人が武士や大名が自宅でくつろぐ場面を演じると、どうしても鬼平のイメージとかぶってしまうのよね~。

口  上

芝翫の仕切りで、歌右衛門の追善と松江の襲名/玉太郎の初舞台披露を兼ねる。まだ小さい玉太郎は、挨拶の順番が来た時点でふすまが開いてトコトコと歩いてくるのが姿もかわいらしく、最初から無理に座らせておくよりこの方がいいと思った。

大成駒の追善となると一同かしこまってしまうのかと思いきや、ギャンブルやぬいぐるみの話など素顔の逸話が満載で、とてもなごやかだった。左團次さんに至っては、マージャンのお相手に團十郎と2人で自宅によばれ、真夏なのに大成駒は健康上クーラーを使わないので汗だくになってしまい、脱いでもいいというから裸になったら、「汚いおへそだね」 と言われてそれ以来よんでもらえなくなったと…。なごやかを通り越して大笑い。又五郎先生のお元気なお姿もうれしい。又五郎先生にとっては大成駒も 「藤雄ちゃん」。そうかと思えば、「自分がいちばん怒られた。それが勲章」 という福助の言い方は、なんかちょっと、自分が一番目をかけてもらっていたと言っているようで、魁春に失礼なんじゃないかって思ってしまった。ひねくれすぎかしらん。

時 雨 西 行

梅玉の西行法師に山城屋の江口の君。相変わらず、踊りはよく分からない~。三味線方の中に 「伝の会」 の鉄九郎さんがいらして、「そういえば最近は伝の会のイベントに行っていないなぁ」 とか、「いつになくマジメな顔をして … 当たり前か」 とか、余計なことばかり考えてしまった。すまんです。西行法師の衣裳の色目がとても好きだった。渋くて上品。

伊勢音頭恋寝刃 

どうしてこうよくかかるのかなぁ。確かに歌右衛門の万野のすごさは今もしっかり覚えているし、仁左衛門の貢は文句なしの二枚目なんだけど、誰がやっても最後に、さんざん人殺ししておきながら大団円でいいのか?! と思ってしまうわけで…。

万野は福助。憧れの役だと口上で言っていた。どうなんだろう。伊勢の廓の女としては、あれではまっていたのだろうか? 憎々しければいいというもんじゃないだろう、なんて思ってしまったのだが…。今月はどうも福助に辛口になってしまうな。別に嫌いじゃないんだけど、なんだか今月の福助は、歌右衛門の追善で気負ってしまったのか、どの役も力が入りすぎて空振りしているような気が…。

時蔵のお紺は好き。勘太郎のお岸もよかった。梅玉は、貢もいいけど喜助もいいなぁ。東蔵のお鹿はやりすぎずほどよくて、死に方もあっさり。

昼夜を通して、演目は割と地味だけれど、顔ぶれはさすが大成駒と思わせる豪華版。先月の仁左衛門追善に続いて、昭和の歌舞伎が遠ざかっていくのをシンシンと感じた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四月歌舞伎座 夜の部

井 伊 大 老

今回は最後の幕のみの上演なので、桜田門外の変に至る政争は描かれず、正妻昌子や水無部六臣・長野主膳も登場しない。場面転換もなく、お静の方の住む下屋敷だけという今回の上演はしかし、物足りないどころか、直弼とお静の方との間に流れる情愛だけがしみじみと伝わってきて、かえってシンプルでいいように思った。

吉右衛門と魁春のコンビはもうおなじみで、安定感すら感じる。魁春初役のお静の方は、控えめで慎ましい人だけに昌子への嫉妬を思わずもらす場面が生々しくならず、禅師の台詞どおりかわいらしく映る。禅師の言葉から直弼の前途に不安を感じ、その後もずっとその不安をぬぐえずにいる、その表情がとても印象的だった。

禅師は富十郎。よっこらせ、と年寄りっぽく演じていて、この人の実年齢を考えるとむしろ普通なはずなのに、日頃年齢を感じさせない人だから、老けに演じると不思議な気がしてしまう。もちろん、この役にはとても合っていたのだけれど。

歌江さんの雲の井がいい。歌右衛門の追善にはなくてはならない人だものね。

吉右衛門の直弼はもう何度も観ている気がするのだけれど、この人が武士や大名が自宅でくつろぐ場面を演じると、どうしても鬼平のイメージとかぶってしまうのよね~。

口  上

芝翫の仕切りで、歌右衛門の追善と松江の襲名/玉太郎の初舞台披露を兼ねる。まだ小さい玉太郎は、挨拶の順番が来た時点でふすまが開いてトコトコと歩いてくるのが姿もかわいらしく、最初から無理に座らせておくよりこの方がいいと思った。

大成駒の追善となると一同かしこまってしまうのかと思いきや、ギャンブルやぬいぐるみの話など素顔の逸話が満載で、とてもなごやかだった。左團次さんに至っては、マージャンのお相手に團十郎と2人で自宅によばれ、真夏なのに大成駒は健康上クーラーを使わないので汗だくになってしまい、脱いでもいいというから裸になったら、「汚いおへそだね」 と言われてそれ以来よんでもらえなくなったと…。なごやかを通り越して大笑い。又五郎先生のお元気なお姿もうれしい。又五郎先生にとっては大成駒も 「藤雄ちゃん」。そうかと思えば、「自分がいちばん怒られた。それが勲章」 という福助の言い方は、なんかちょっと、自分が一番目をかけてもらっていたと言っているようで、魁春に失礼なんじゃないかって思ってしまった。ひねくれすぎかしらん。

時 雨 西 行

梅玉の西行法師に山城屋の江口の君。相変わらず、踊りはよく分からない~。三味線方の中に 「伝の会」 の鉄九郎さんがいらして、「そういえば最近は伝の会のイベントに行っていないなぁ」 とか、「いつになくマジメな顔をして … 当たり前か」 とか、余計なことばかり考えてしまった。すまんです。西行法師の衣裳の色目がとても好きだった。渋くて上品。

伊勢音頭恋寝刃 

どうしてこうよくかかるのかなぁ。確かに歌右衛門の万野のすごさは今もしっかり覚えているし、仁左衛門の貢は文句なしの二枚目なんだけど、誰がやっても最後に、さんざん人殺ししておきながら大団円でいいのか?! と思ってしまうわけで…。

万野は福助。憧れの役だと口上で言っていた。どうなんだろう。伊勢の廓の女としては、あれではまっていたのだろうか? 憎々しければいいというもんじゃないだろう、なんて思ってしまったのだが…。今月はどうも福助に辛口になってしまうな。別に嫌いじゃないんだけど、なんだか今月の福助は、歌右衛門の追善で気負ってしまったのか、どの役も力が入りすぎて空振りしているような気が…。

時蔵のお紺は好き。勘太郎のお岸もよかった。梅玉は、貢もいいけど喜助もいいなぁ。東蔵のお鹿はやりすぎずほどよくて、死に方もあっさり。

昼夜を通して、演目は割と地味だけれど、顔ぶれはさすが大成駒と思わせる豪華版。先月の仁左衛門追善に続いて、昭和の歌舞伎が遠ざかっていくのをシンシンと感じた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四月歌舞伎座 昼の部

六世中村歌右衛門五年祭/六代目中村松江襲名披露/五代目中村玉太郎初舞台

満開の桜が咲く中に雪が舞う日に大成駒が旅立ち、早五年…。芸養子であった東蔵の息子が松江となり、その息子が玉太郎として初舞台を踏む。

狐と笛吹き

北条秀司作。もとは滝沢修と杉村春子で放送されたラジオドラマだという。歌舞伎での初演は昭和27年7月歌舞伎座で、寿海と歌右衛門。数々の演目でコンビを組んだ二人のスタートとなった作品。

「詩情あふれる名作」 と筋書にあるが、考えてみるとすごい話だ。妻のまろやを亡くした哀しみから抜け出せずにいる春方に命を助けられた母狐が 「春方をなぐさめるように」 と娘の狐をまろやに生き写しの姿で春方のもとに遣わす。やがて二人は愛し合うようになり、「契りを交わせば命がない」 という母狐の教えを破り、狐のともねは死んでしまう。行為に及べばともねは死んでしまうかもしれないと承知していながら、突進してしまう春方って。しかも節会の笛師の選にもれた絶望に酔いつぶれたあげくの出来事で、春方はそのまま狐を抱いて湖に入水しようと姿を消してしまうのだから、周囲は絶望のあまり自殺したとしか考えようがない。笛師に選ばれた親友の秀人はたまらないだろう。

前回、染五郎が春方を演じた時には、やけに生々しくてなんだか後味が悪かったのだが、梅玉だとそんな感じがしないのが不思議。清々しささえ感じるのだからすごい。でも、まろやとともねを演じた福助は、この芝居には合わないと思う。まろやへの嫉妬からまろやの着物を子供たちにあげてしまう場面で、どうして笑いをとる必要があるのか。他の場面でも感情過多になりすぎて、生々しさが増してしまう。

高  尾

高尾の亡霊が現れ、廓勤めの辛さを訴えた後、四季の廓の情景を描く華やかな踊りとなり、続いて間夫を待つ身の切なさを語り、最後は地獄の責めの苦しみを語って幕。… というのはすべて筋書からの情報で、ほとんど動きのない雀右衛門の踊りからはそんな物語はまったく浮かび上がってこなかったのだけれど、それでもいいと思ってしまう。歌右衛門の追善に雀右衛門が踊る。それだけでいい。

沓手鳥孤城落月

幸いなことに、平成7年4月の歌舞伎座で歌右衛門の淀君を見ている。翌年、雀右衛門も演じているが、あまり合わない気がした。それ以降は芝翫でしか見ていない。歌右衛門の淀君は執念の塊で、芝翫の方は意地ずく。なんとなく恨みの質感が違う気がする。

国生の裸武者。丸々太ってプクプクだし身長もまだ小さいから、まるで五月人形に魂が入って戦っているみたい。同じく戦いに加わる小姓の中に、子役から梅玉の部屋子になった梅丸クンもいて、こういう小さい子たちが相手だと、刀の位置も下がるわけだから、回りは戦いにくいんじゃないかしらん、と心配になったけど、国生くん、階段落ちも立派にやってのけた。

勘太郎の秀頼がいい。左團次さんの内膳、東蔵の修理、松也の千姫、秀太郎の局。

関八州繋馬 小蝶蜘

初めて観た。それもそのはず、昭和45年6月に歌右衛門が演じたきりだ。父に続いて如月姫を演じる魁春は、隈をとるのも初めてだという。

天下転覆を企む役なんて、仁左衛門には珍しい。頼光ならぬ頼信に菊五郎。仁左衛門と菊五郎の顔合わせも新鮮。『土蜘蛛』 より派手だし、登場人物も多くて豪華さもあり、なかなか新鮮だった。もっと上演されてもいいと思うなぁ。





| | コメント (0) | トラックバック (0)

三月歌舞伎座 夜の部

あまりにさぼりすぎてしまい、もう2か月以上経ってしまったけれど、遅ればせながら記憶をたどりつつ書いておきたい。

片岡十二集の内 近頃河原の達引

昼の部の  『菅原伝授手習鑑-道明寺』 に続く十三世片岡仁左衛門十三回忌追善狂言。伝兵衛に山城屋を迎え、我當が猿曳与次郎を、秀太郎がお俊を勤める。十三代目の与次郎は昭和50年が最後だったので間に合わず、この役は我當でしか観たことがない。歌六の次男龍之助が演じる稽古娘おつるは、我當自身が昭和五年に初舞台として演じた役でもある。

お俊に横恋慕して贋金で伝兵衛を陥れようとして殺されてしまう愚かな横溝官左衛門を團蔵が演じる。敵役といえば團蔵というぐらいで、よくはまっているのだけれど、丹波亀山藩の勘定役人なのに言葉がひとりだけ江戸弁っぽくて浮いてしまう。上方の芝居は雰囲気がとても大切だから、関西弁を使い慣れない人には大変なのだろうなぁ。

目が不自由ながら、おつるに稽古をつける母ぎん (吉之丞) の三味線と、野澤松也さんの三味線とが連れ弾きになる場面がとても印象的だった。

貧しい暮らし、文盲の与次郎。切々とした哀れが漂い、楽しげに踊る猿の姿にいっそう切なさが募る。こうした味わいをこそ堪能する作品なのだろう。

二 人 椀 久

富十郎の椀久はもう何度となく観ているけれど、松山に初役の菊之助を迎えたことで、とても新鮮な舞台となった。富十郎の若々しさにあらためて驚く。単に若々しいだけでなく、二枚目にすら見えてくる… (失礼だなぁ)。

よく出る踊りで、松山の登場と去り方にスクリーンを使ったり、木の後ろを出入りしたりと、様々な工夫がみられる。今回は、シンプルにセリを使い、特に消えていく場面は、巻紙の手紙を手にしたまま回転しながら沈んでいく姿がとても流麗で美しかった。

水天宮利生深川 - 筆屋幸兵衛

この幕は意外だった。というのは、先代の勘三郎の舞台をビデオで観たことがあるだけなので、幸四郎にはとても似合わないだろうと思ったし、なんたって苦手な高麗屋だから、てっきり退屈するだろうとあきらめてすらいた。幸四郎という人はまず世話物一般に合わないという先入観もあった。ましてや妻を亡くして男手ひとつで3人の子供を育てる役なんて合うはずがないと思っていたのだった。それが大間違い。没落したとはいえもとは武士。その背景が人情あふれる勘三郎よりむしろクッキリと際立ってくるのだ。武士としての挟持を捨てきれないからこそ現実を受け入れられず、正気を失うところまで追いつめられてしまう。親子の情愛を全面に出し、かわいい子供たちに何もしてやれない情けなさが狂気の原因のよう見える勘三郎の幸兵衛とはまったく違うやり方で、作劇の趣旨を考えると、幸四郎の解釈の方が正しいのだろうと思えた。子供たちの悲惨な境遇が描かれてはいても、幸四郎の幸兵衛を追いつめていくのはそうした周囲の状況ではなく、あくまで明治維新とともに押し寄せてきた新しい時代の波に乗れずに打ちひしがれていく自分自身でしかない。やっぱりこの人には、孤高の役が向いているのよねぇ…。

作者の黙阿弥も、明治という時代に生きにくさを感じていたように思う。幸兵衛には黙阿弥自身も投影されているのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年4月 | トップページ | 2006年7月 »