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2006年8月30日 (水)

稚魚の会・歌舞伎会

合同公演も第十二回。今年は小劇場で、指定席制。但し来年からはまた自由席に戻ってしまうらしい。4日間の公演の最終日、歌舞伎座千秋楽の翌日にA班B班通しで観た。

■ 修善寺物語

配役は、それぞれA班・B班の順で、夜叉王 (悟・松五郎)、かつら (徳松・由蔵)、かえで (喜昇・竹蝶)、春彦 (獅一・隆松)、頼家 (蝶之介・梅之)、景安 (吉二郎・獅之助)、行親 (紀義・芝紋)。徳松・由蔵ともに普段はむしろ引っ込み思案で内気な印象を受けるのに、気位の高い役を十分にこなしていた。二人の娘がまだ18歳と20歳なのだから、夜叉王はまだ40代ぐらいのはずだけれど、老役のように演じることが慣例になっているので、若さが邪魔になってしまうのは否めない。この芝居を初めて観た時の夜叉王は富十郎だった。幕切れに夜叉王が見せる芸術家としての非情さに背筋が凍る思いがしたことを今でもよく覚えている。単に初めて観た驚きだったのか、その後に誰が演じても (富十郎の再演も含め) あの時ほどに強い印象を受けたことは残念ながらない。どちらかといえば、松五郎の夜叉王の方が骨太で力強かった。梅之の頼家、美しい~。でも頼家といえばやっぱり、何年も前の左十次郎の麗しさが忘れられない。全体の印象は、A班B班どちらも優劣なく、よくまとまっていたし、ひたむきな演技に心惹かれた。それこそがこの合同公演そのものの魅力。

■ 廓三番叟/願絲縁苧環

例によって踊りはよく分からないし、ただそこにいるだけで漂ってくる雰囲気が大切という意味で共通していると思うので、2つをまとめてしまう。三番叟の方は、千歳太夫 (みどり・仲四郎)、新造梅里 (翔太・まつ葉)、太鼓持藤中 (梅秋・蝶三郎)、妹背山の方は、求女 (春花・伊助)、橘姫 (京珠・福緒)、お三輪 (國久・京三郎)。後者の方は物語があるからまだいいとして、廓の雰囲気だけで見せる前者は、ベテランが踊ってもそれほど印象に残るものではないから、勉強会の課題としてはかなりハードルが高いのだろうと思う。お行儀よく踊ってるな、というのは伝わってくるのだけれど、艶然とした傾城らしさを見せるには至らず、なんとも申し訳ないことにA班B班とも途中で意識を失ってしまった。太鼓持のカツラが梅秋クンにとっても似合って可愛らしかったことだけは覚えてるんだけど…。

■ 三社祭

A班は段一郎・國矢、B班は富彦・左字郎。これは踊り手による違いがハッキリ出た。まったく違う踊りを見ているようだった。こんなに違うものかとビックリ。いかんせん素人でうまく説明できないのだけれど、A班は二枚目タイプでやや直線的でスッキリと端正なのに対し、B班はどちらかというと三枚目的で動きに丸みがあって腕白坊主っぽい。優劣ではなく、あくまで個性の相違。どちらもそれぞれに気持ちよくて大好きだった。拍手喝采!

■ 双蝶々曲輪日記 引窓

与兵衛 (橘三郎・猿琉)、お早 (仲之助・春之助)、お幸 (嶋之亟・歌女之丞)、濡髪 (吉六・茂之助)。配役による違いがあるとすれば、与兵衛だけ年齢に差があって、その差が全体の雰囲気に出ていた。昇進してウキウキしている場面では猿琉の若さがほほえましいし、後半になると橘三郎のベテランの味が光る。お幸の嶋之亟・歌女之丞ともにすでに手に入った役と言っていい安定感で、いずれも勉強会レベルでなく、本興行で演じてもおかしくない。二人の演技で大きく違っていたのは、亡夫に義理がたつまいと濡髪に諭される場面。嶋之亟は一瞬、言葉を失い、ハッと気がつくという演じ方で、歌女之丞はすぐに台詞にかかる。どちらが正しいわけでもない。亡夫への義理をも忘れるほどに我が子を思う母と、重々承知していながら我が子を助けようとする母。単に解釈の違いだろう。お早にもそれぞれの個性がよく出て、仲之助はいかにもしっかり者という感じで、春之助には廓上がりらしい華やかさがあった。濡髪は、どちらも堂々としていて、なにより相撲取りらしいところがいい。勉強会であることを忘れてしまうぐらいに充実した舞台で、最初に観たA班の方では思わず涙が出てしまった。でもきっと、最初に観たのがB班だったとしてもやっぱり泣かされていたと思う。

■ 終わりに

稚魚の会・歌舞伎会合同公演のたびに思うのは、これほどの力のある人たちが普段は脇役に回って舞台を支えているということ。歌舞伎の底力を実感できて心強い。また、この合同公演を観ることで、普段はあまり台詞のない面々の個性がよく分かり、本興行の楽しみが倍加する。来年も期待しよう! 但し、歌舞伎座の第一部から第三部まで千秋楽に通しで観た翌日に合同公演のA班B班も通しというのはさすがにハードだったので、来年はスケジュール調整を綿密に…。

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八月納涼歌舞伎

毎年恒例の三部制。久々に通しで観た。

 第一部 1 慶安太平記 丸橋忠弥 

由比正雪らが幕府の転覆を図ったとされる慶安事件に題材をとりながら、事件の概要にほとんどふれることなく、かろうじて一味の連判状を女房に託す場面で吉田松陰の名前が出てくる程度なので、忠弥がなぜ捕らわれるのかが分かりにくく、堀の深さを推測するために石を投げる場面も単なる型のひとつになってしまっているのだが、この場面だけが上演される都合上、致し方ないだろう。ただ、背景が明確でないだけに、忠弥住居の場から捕手が登場するまでの場面が盛り上がらず、緊迫感がない。濠端の場面と立廻りが見どころの芝居にせよ、中盤がだれるのはもったいない気がする。

橋之助の忠弥の酔態は豪快で気持ちがよく、「素敵に酔っちまったぜぇ」 という台詞が生きてくる。茶屋の亭主に四郎五郎、忠弥が上機嫌で酒をおごってやる中間衆に菊十郎、橘太郎、三津右衛門の3人と、もうその場にいてくれるだけで嬉しくなっちゃうような顔ぶれ。

激しい立廻りで怪我人が相次いでいることを知り、心配しつつも期待していた。「どうかもう誰も怪我をしないで」 と祈りながらハラハラドキドキ+ワクワク。果たして、期待通り、いやそれ以上の素晴らしい立廻り。気迫がビンビン伝わってきた。幕切れ直後、降りた幕の向こうで一本締めの音。お疲れさまでした~!

 第一部 2 近江のお兼 

前の幕の立廻りで活躍していた信之・橋吾の両名が引き続き登場し、涼やかな浴衣姿で福助のお兼に挑みかかる。若さだねぇ。花道での立廻りに気をとられている間に、舞台上では馬がアクロバット級の難しいポーズを決めていた。見どころは時間差にしてくれないと。両方ちゃんと観たいのに! 踊りそのものは … よく分からない~。

 第一部 3 たのきゅう 

メディアで一番とりあげられていたのがこの新作舞踊劇。三津五郎の追っかけだったという女優兼作家兼演出家のわかぎゑふの書き下ろし。肩のこらない楽しい一幕ではあったのだけれど、とってもとっても消化不良。というのも、舞台のど真ん中それも肩の高さぐらいの舞台を組み上げ、たのきゅう一座の踊りも染五郎扮する大蛇とのからみもすべてその上で演じられるため、遠くて小さくて迫力不足。あの組み上げ舞台、ない方が絶対よかったと思う。

切り株に柄の長い団扇をいくつか突き刺してドラムに見立てような楽器を巳之助が演奏。これがなかなか耳に心地よい。いつのまにかパパより背が高くなったのねぇ。まだまだ伸びそう。

坂東吉弥の孫が小吉を名乗って初舞台。台詞もしっかりしていて可愛らしかった。劇中の口上で、三津五郎が小吉の初舞台と三津右衛門の名題昇進を披露。三津右衛門を紹介する際に 「日頃から頼りにしている一人」 というひとことがあって、あったかくていい口上だなぁ、となんだか嬉しくなっちゃった。

 第二部 1 吉原狐 

橋之助が珍しく女形で、福助の朋輩芸者。立役があえて女形を演じる必然性があるのかと思いきや、特にそういうわけでもなく、単なる話題作りというか…。確かに新鮮だったし、意外に違和感がない。やたらと大きいけど、それなりにキレイだし。

早口で早とちりで惚れっぽい芸者おきちという役が福助にピッタリ。まさに水を得た魚。だけど、それだけ。なんかこう、表面だけというか、薄っぺらいんだよねぇ。羽振りのよかった男が落ち目になった途端、狐が憑いたように惚れてしまう悪い癖も、その瞬間、大きな目をさらに見開いて狐の手になって固まるから一目瞭然で、客席からは笑いが起こる。確かに可笑しい。でも、ただただマンガチックなだけで、物足りない。『たのきゅう』 もそうだけど、何か月か経ったらどんな芝居だったか思い出せなくなりそうな…。

おきちの父親三五郎役は三津五郎。年が近すぎる違和感を除けば、父親としての情愛といい、娘のおきちより年下の恋人お杉に対する気遣いといい、これはもう文句なし。染五郎の旗本貝塚求女も、よく役に合っていた。落ち目になった時の憂い顔はなんともいえず、おきちならずとも惚れちゃいそう。そうかと思えば、刀を抜いて暴れまでしたのにほったらかしにされ、呆然とする姿がおかしい。初演時の配役は、先代勘三郎のおきち、勘弥の求女に白鸚の三五郎だったそうな。きっとまったく違う芝居だったんだろうなぁ。

 第二部 2 団子売/玉屋/駕屋 

踊りはよく分からないので、まとめてしまう。『団子売』 は、扇雀の杵蔵に孝太郎のお臼。扇雀は今月6役の大活躍だけど、この踊りぐらい高麗蔵や信二郎に譲ってもよかったんじゃ? 『玉屋』 のしゃぼん玉売りは染五郎。水玉の衣裳がさわやか。『駕屋』 では、三津五郎の駕屋三太に小吉が犬のかぶりもの。三太の弁当を加えたままで踊る姿が可愛らしい。三津五郎は、首抜きの浴衣から肌脱ぎになり、刺青も鮮やかで、ねじりはちまきで威勢よく、いつもながらに端正でスカッとする踊りっぷり。小吉クン、いい初舞台になったね。

 第三部 南総里見八犬伝 

扇雀の伏姫、八犬士には、三津五郎、福助、弥十郎、染五郎、高麗蔵、孝太郎、信二郎、松也。華やかできらびやかな舞台だったけど、正直なところ、まだ観てから何日も経っていないのにほとんど記憶に残っていない。壮大な長編をほんの一部だけかいつまんで見せるのだから無理ないのかもしれないけれど、たとえば猿之助の八犬伝には 「ロマン」 というテーマがあり、八犬士の絆もしっかり描かれていた。そういう核になるものがまったくなくて、ただ見かけが豪華なだけで終わってしまった、という感じ。印象的だったのは、松也が冒頭に演じる安西景連の亡霊で、珍しく年嵩の武将姿もハリのある声も松助さんにとてもよく似ていた。

 終わりに 

なんだかマイナス面ばかり書いてしまったけれど、全体的に皆とても楽しそうでイキイキしていたのが印象的だった。芝居としては物足りなかったものの、8月の三部制はこのぐらいの軽さでちょうどいいのかもしれない。

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2006年8月 1日 (火)

七月歌舞伎座 夜の部

夜の部について書く前に、昼の部 『夜叉が池』 に関する追記をば。百合と晃の二人が白髪でいる理由が戯曲を読んでも判然としなかった、と書いた時点では、学円が白髪のことを尋ねる場面を拾い読みしただけだった。その後、戯曲の全編を読み通してみると、それより後の晃と学円の会話の中で、(村へ来てから過ぎ去った時間の長さを) 「忘れるために、その上、年に老朽ちて世を離れた、と自分でも断念のため。…ばかりじゃない、…雁、燕の行きかえり、軒なり、空なり、行交う目を、ちょっとは紛らす事もあろうと、昼間は白髪の仮髪を被る 」 と、美しい言葉でしっかりと説明されていた。やっぱり無精して拾い読みで済ませてはいけない、と反省した次第。とはいえ、晃がそうまでしないと望郷の念を押さえきれないのだとしたら、そのこと自体、百合にとっては悲しいのではないかしらん。

■ 山   吹

「観ているうちにだんだん腹立たしくなってきて、よっぽど途中で席を立とうかと思った」 という過激な声さえ聞いていたので、覚悟して臨んだ。確かに冗長だし、だらける場面も少なくない。でも、意外に嫌いじゃなかった。ひとつには、鏡花はこの作品にどんな思いを込めたのだろうか、と考えながら観たこと。もしこれがなじみの薄い別の作家の手になるものだったら、初めから興味が持てずに退屈していたかもしれない。

「正直な話、読んでもさっぱり分からないんですよ」 と筋書で率直に語っていた歌六。千秋楽まで演じ終えた上での感想をあらためてきいてみたい。罪を悔いて折檻を切望する人形遣いの心情をどのように理解したのだろう。自分が殺した女が美しかったから、美しい女性に折檻されたいという願いはずいぶん勝手な気がするし、縫子と同道できることになった途端に、それまで拝し奉っていた静御前の人形を置き去りにしてしまうという…。縫子に折檻されることが彼にとっての喜びだとしたら、それで罪が消えることになるのだろうか?

縫子も不思議な役。島津への憧れを抱いたまま伯爵家に嫁いで、婚家との折り合いが悪く家出して、島津に自死を戒められ、毎日毎夜縫子の折檻を受けたいと願う人形遣いの存在に自分の居場所を見つけたという … 折檻であれなんであれ必要とされたことが居場所になるのだろうか。そもそも、縫子が死を覚悟して家出した理由が陳腐すぎるために共感できないのが一番問題な気がする。わけの分からないこの難役に、笑三郎はよく健闘したと思う。

勝手に想われ巻き込まれた形の島津も、尋常でない縫子の様子を明らかに不気味に感じているのに、まるで魔に魅入られたかのように一瞬、縫子と共に行こうかと迷う。いや、と思いとどまる言葉が 「仕事がある」 って、それ、どうよ。実際、この台詞で客席に笑いの声が起こっていたが、段治郎の責任ではない。

… と、あれやこれや考えながら観ていたわけだが、見どころとされる折檻の部分こそを鏡花が書きたかったのだとは思いたくない。その奥底にある屈折した不可思議な感情のねじれみたいなものを表現するためのひとつの形として、折檻という耽美ともとれる手段を選んだのではないだろうか。折檻する側とされる側のそれぞれにただならぬ屈折を持たせたために、こんなに難解な作品になってしまった。そんな気がす
る。この幕の間だけ空席が目立っていたのも無理はない。それでも、「澤瀉屋のみなさんに、少しでも大正のにおいのする世界に慣れてもらいたい 」 という玉三郎の期待に、笑三郎も段治郎もよく応えた。その意味で、作品の好き嫌いは別にして、上演の意義はあったと思う。

■ 天守物語

圧巻。いやぁ、いいもの観ちゃったなぁ、という感じ。映画での宮沢りえのインパクトがとても強いので、春猿にはちょっと気の毒だったし、最後を締める彫師も島田正吾や羽左衛門が演じてきた役だから、猿弥にはさぞかし重荷だったろう。それでも、猿之助のもとで大きな役を演じ続けてきただけのことはある。物足りなさは残るにせよ、健闘は評価したい。朱の盤坊を演じた右近も、ひと頃のような口跡の良さが戻ってきて、誰の物真似でもなく自分なりの演技なのが観ていて気持ちがよかった。

昼の部の 『海神別荘』 と似た役どころの吉弥も期待通りに大活躍。厳しさや主人に対する忠義だけでなく、愛嬌もあるところがいい。侍女の中では京妙さんが特にはじけていて、ひときわキュートだった。武田の家臣のうち獅子の由来を語る修理を演じるのは薪車。『日高川』 の船頭以来、玉三郎に重用されて活躍している。功一君に似てるような…。そして忘れてならないのが門之助の舌長姥! 新たな境地を開いたんじゃない?!

図書之助は海老蔵。
『海神別荘』 の公子とは別人のような憂いとしおらしさ。時折り見せる切なげな眼差しといい、うつむいた横顔の美しさといい、なんやかや言ってもすごいなぁ、とあらためて感心してしまった。台詞はちょっと作りすぎかなぁ? でもそんなことどうでもよくなってしまう。富姫にとって千歳百歳に唯一度の恋の相手としてまったく不足がない。ああ、やっぱり言いたい。「萌え~!!」

そしてそして、玉三郎だ。大きな効果をあげていたスクリーンにエメラルド色の光が走り、登場した瞬間の圧倒的な存在感。台詞の端々、ちょっとした表情や仕草のひとつひとつに、「ああ、まさに富姫だ」 と強く思う。もうこの人以外の富姫なんて考えられない。すごすぎて言葉にできない。唯一、ひざまずいた図書之助と立ったまま向かい合う場面で、首が落ち背中が丸い姿勢が老けて見えたぐらいで、あとはもう、ただ圧倒されていた。今月の企画そのものに対しても、玉三郎に感謝したい。

昼夜を通して思ったのは、4作品の配分がよく考えられていたということ。玉三郎・海老蔵が組む 『海神別荘』 と 『天守物語』 を昼と夜に分けるのは当然としても、もし 『海神別荘』 と 『山吹』、『夜叉が池』 と 『天守物語』 の組合せだったら、夜の部に春猿の役が重なることはひとまず置いておくとしても、圧倒的に夜の部の比重が増してしまっただろう。最後の最後に 『天守物語』 を出すことで満足度が高まる。その証拠に、『天守物語』 の後は拍手が鳴り止まず、カーテンコールが繰り返され、最後には歌舞伎座では珍しいスタンディングオベーションだった。ああ、また映画版が観たくなっちゃったな。

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