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2006年8月 1日 (火)

七月歌舞伎座 夜の部

夜の部について書く前に、昼の部 『夜叉が池』 に関する追記をば。百合と晃の二人が白髪でいる理由が戯曲を読んでも判然としなかった、と書いた時点では、学円が白髪のことを尋ねる場面を拾い読みしただけだった。その後、戯曲の全編を読み通してみると、それより後の晃と学円の会話の中で、(村へ来てから過ぎ去った時間の長さを) 「忘れるために、その上、年に老朽ちて世を離れた、と自分でも断念のため。…ばかりじゃない、…雁、燕の行きかえり、軒なり、空なり、行交う目を、ちょっとは紛らす事もあろうと、昼間は白髪の仮髪を被る 」 と、美しい言葉でしっかりと説明されていた。やっぱり無精して拾い読みで済ませてはいけない、と反省した次第。とはいえ、晃がそうまでしないと望郷の念を押さえきれないのだとしたら、そのこと自体、百合にとっては悲しいのではないかしらん。

■ 山   吹

「観ているうちにだんだん腹立たしくなってきて、よっぽど途中で席を立とうかと思った」 という過激な声さえ聞いていたので、覚悟して臨んだ。確かに冗長だし、だらける場面も少なくない。でも、意外に嫌いじゃなかった。ひとつには、鏡花はこの作品にどんな思いを込めたのだろうか、と考えながら観たこと。もしこれがなじみの薄い別の作家の手になるものだったら、初めから興味が持てずに退屈していたかもしれない。

「正直な話、読んでもさっぱり分からないんですよ」 と筋書で率直に語っていた歌六。千秋楽まで演じ終えた上での感想をあらためてきいてみたい。罪を悔いて折檻を切望する人形遣いの心情をどのように理解したのだろう。自分が殺した女が美しかったから、美しい女性に折檻されたいという願いはずいぶん勝手な気がするし、縫子と同道できることになった途端に、それまで拝し奉っていた静御前の人形を置き去りにしてしまうという…。縫子に折檻されることが彼にとっての喜びだとしたら、それで罪が消えることになるのだろうか?

縫子も不思議な役。島津への憧れを抱いたまま伯爵家に嫁いで、婚家との折り合いが悪く家出して、島津に自死を戒められ、毎日毎夜縫子の折檻を受けたいと願う人形遣いの存在に自分の居場所を見つけたという … 折檻であれなんであれ必要とされたことが居場所になるのだろうか。そもそも、縫子が死を覚悟して家出した理由が陳腐すぎるために共感できないのが一番問題な気がする。わけの分からないこの難役に、笑三郎はよく健闘したと思う。

勝手に想われ巻き込まれた形の島津も、尋常でない縫子の様子を明らかに不気味に感じているのに、まるで魔に魅入られたかのように一瞬、縫子と共に行こうかと迷う。いや、と思いとどまる言葉が 「仕事がある」 って、それ、どうよ。実際、この台詞で客席に笑いの声が起こっていたが、段治郎の責任ではない。

… と、あれやこれや考えながら観ていたわけだが、見どころとされる折檻の部分こそを鏡花が書きたかったのだとは思いたくない。その奥底にある屈折した不可思議な感情のねじれみたいなものを表現するためのひとつの形として、折檻という耽美ともとれる手段を選んだのではないだろうか。折檻する側とされる側のそれぞれにただならぬ屈折を持たせたために、こんなに難解な作品になってしまった。そんな気がす
る。この幕の間だけ空席が目立っていたのも無理はない。それでも、「澤瀉屋のみなさんに、少しでも大正のにおいのする世界に慣れてもらいたい 」 という玉三郎の期待に、笑三郎も段治郎もよく応えた。その意味で、作品の好き嫌いは別にして、上演の意義はあったと思う。

■ 天守物語

圧巻。いやぁ、いいもの観ちゃったなぁ、という感じ。映画での宮沢りえのインパクトがとても強いので、春猿にはちょっと気の毒だったし、最後を締める彫師も島田正吾や羽左衛門が演じてきた役だから、猿弥にはさぞかし重荷だったろう。それでも、猿之助のもとで大きな役を演じ続けてきただけのことはある。物足りなさは残るにせよ、健闘は評価したい。朱の盤坊を演じた右近も、ひと頃のような口跡の良さが戻ってきて、誰の物真似でもなく自分なりの演技なのが観ていて気持ちがよかった。

昼の部の 『海神別荘』 と似た役どころの吉弥も期待通りに大活躍。厳しさや主人に対する忠義だけでなく、愛嬌もあるところがいい。侍女の中では京妙さんが特にはじけていて、ひときわキュートだった。武田の家臣のうち獅子の由来を語る修理を演じるのは薪車。『日高川』 の船頭以来、玉三郎に重用されて活躍している。功一君に似てるような…。そして忘れてならないのが門之助の舌長姥! 新たな境地を開いたんじゃない?!

図書之助は海老蔵。
『海神別荘』 の公子とは別人のような憂いとしおらしさ。時折り見せる切なげな眼差しといい、うつむいた横顔の美しさといい、なんやかや言ってもすごいなぁ、とあらためて感心してしまった。台詞はちょっと作りすぎかなぁ? でもそんなことどうでもよくなってしまう。富姫にとって千歳百歳に唯一度の恋の相手としてまったく不足がない。ああ、やっぱり言いたい。「萌え~!!」

そしてそして、玉三郎だ。大きな効果をあげていたスクリーンにエメラルド色の光が走り、登場した瞬間の圧倒的な存在感。台詞の端々、ちょっとした表情や仕草のひとつひとつに、「ああ、まさに富姫だ」 と強く思う。もうこの人以外の富姫なんて考えられない。すごすぎて言葉にできない。唯一、ひざまずいた図書之助と立ったまま向かい合う場面で、首が落ち背中が丸い姿勢が老けて見えたぐらいで、あとはもう、ただ圧倒されていた。今月の企画そのものに対しても、玉三郎に感謝したい。

昼夜を通して思ったのは、4作品の配分がよく考えられていたということ。玉三郎・海老蔵が組む 『海神別荘』 と 『天守物語』 を昼と夜に分けるのは当然としても、もし 『海神別荘』 と 『山吹』、『夜叉が池』 と 『天守物語』 の組合せだったら、夜の部に春猿の役が重なることはひとまず置いておくとしても、圧倒的に夜の部の比重が増してしまっただろう。最後の最後に 『天守物語』 を出すことで満足度が高まる。その証拠に、『天守物語』 の後は拍手が鳴り止まず、カーテンコールが繰り返され、最後には歌舞伎座では珍しいスタンディングオベーションだった。ああ、また映画版が観たくなっちゃったな。

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